ガムランつれづれ

バリ・ガムランに関するチャガのコラムです。

カヨナン きっかけは観光ではなかった
それは中学生の頃
TVから流れてきた音楽に不覚にも涙がこぼれそうになった
"世の中にはこんな音楽がある"
それは新鮮で、とてつもない衝撃で
私はバリに、ガムランに惹きつけられてしまった
穏やかなグンデルの響きが聞こえるバリの夕方の空
ぽっかりと丸い、青い光を宿したその空が私の心のバリの風景

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1.グンデル・ワヤン Gender Wayang (1)

 グンデル・ワヤンは影絵芝居の伴奏に使われている音楽と楽器である。バリ・ガムランの中でも最も少ない人数で演奏されるもののひとつである。
 影絵芝居の始まり。グンデル・ワヤンがクリルの後でダラン(人形遣い師)の準備が整うのをまちながら、プトゥガPetugak(器楽曲/特定の人形や動作に合わせて演奏されることのない曲のジャンルのこと)の曲を演奏している。ダランが人形の入った木箱のふたを優しく3度たたく。人形を目覚めさせるのだ。ここからグンデル・ワヤンはプムンカPemungka(影絵芝居の幕開きの音楽)を演奏し始める。
 このプムンカが始まると、もう気持ちは落ち着いていられない。
 今日はどんなが話が始まるのか、道化達はどんなギャグを展開するのか...。自分が演奏に加わっていても、この気持ちは変わらない。プムンカは私にとって心がウキウキする曲なのである。

2.グンデル・ワヤン Gender Wayang (2)

 旅行に訪れた人々や文化人類学者やの著作の中で、グンデル・ワヤンの音について触れたものを見かけることがある。「昼寝の後、夕方に聞こえるグンデル・ワヤンの音」etc.。まあ、書き方はいろいろであるけれども、要するに夕方と結びついているのである。これはなぜか。
 一般の家庭でも、グンデル・ワヤンの音を聞かない日はない、といってもいいんじゃないだろうか。というのも実は、朝、夕にTVRI-DenpasarやRRI-Denpasarから放送されているトリ・サンディヤTri-Sandhya(日に3度の祈り)のマントラの背景音として使われているからである。
 Tri-Sandhyaというからには、本当は朝、昼、夕に放送されていると思う。通常、バリ島以外の地域ではこの時間、イスラムの礼拝を呼びかけるアザーンが放送されている時間である。バリではバリ・ヒンドゥー教の改革とともに、Tri-Sandhyaが制定され、この実践が推奨されている(あんまり実践している人はいないように思うけど)。
 留学してすぐ、私がまだいわゆるKostを借りていた頃、なぜ毎朝早くにグンデル・ワヤンとグンタGenta(プダンダのもつ金剛鈴のこと)の音とマントラの朗誦が聞こえるのか、不思議だった。Kostの南側は、隣のうちのサンガーSanggah(屋敷寺)で、毎日、何のupacaraをしているのかと思っていた。
 でもしばらくしてから、朝からテレビをつけていた先生のお宅へいって、謎が解けた。テレビのTri-Sandhyaだったのである。そうだよな〜、毎日お坊さん(プダンダ)呼んだりしないよな〜、と妙に納得した次第。
 ちなみに、Tri-Sandhyaの背景に使われているグンデル・ワヤンの曲は、"ムラッ・ンゲローMerak Ngelo"のBadungスタイル(デンパサール市内のスタイル)のものである。日本のグンデル・ワヤン奏者にはSukawatiスタイルを学んだ人が圧倒的に多いが、これらの人々の間ではムランゲローと呼ばれており、若干曲も異なっている。

3.ティンクリックTingklik/リンディックRindik
(またはジョゲッ・ブンブンJoged Bumbung)

 日本に夏がやってきて、暑さでうだるような季節になると、なぜかとても風景に似合うのがティンクリックの音。暑くなると「あ〜、今年もティンクリックの季節がやってきた」と思う。「ジー」「キチキチキチキチ」「ミーンミーン」などという蝉や虫の声に混じる ティンクリックの音を、田園風景のなかで聴けたら最高である。
 ところが、この音、秋になると悲しいのである。なんだか寒風の中にむなしく乾燥した音がカラカラと.....。だんだん聴いていて寒くなってきたら、秋も深まってきた証拠。目覚まし時計がわりのCDを変える季節の到来である。他のガムランではあまり感じないのだけれど、ティンクリックだけはなぜか、私の中で強烈に夏と結びついているらしい。なんとも不思議な季節感である。
 ちなみに、秋〜冬〜春にかけて目覚し時計がわりのCDになっているのは、タガスTegasのスマル・プグリンガンSemar Peglinganである。本来の目的とは逆なんだけど....(笑)。スマル・プグリンガン(1オクターブが7音)は王が寝るときに演奏されたもので、起きるときはプレゴンガン(1オクターブが5音)なのだそうである。ただ、タガスのスマル・プグリンガンは、楽器的にはプレゴンガン(これを5音のスマル・プグリンガンとも呼ぶ)である。ま、私は王様じゃないし、どっちでも構わないんですが。

4.パラダ Parade(演奏会、演奏披露会)

 パラダとは最近よくみかける演奏会、または演奏披露会などのことである。ちょっと前まではロンバLomba(競争会、コンクール)が盛んだったが、観客のモラルなどが大きな社会的問題になって、大人のゴン・クビャールのロンバ(ゴン・クビャール・フェスGong Kebyar Fesとよばれていた)がパラダになるなど、ガムランにおける穏便化が進んでいるような気がする。ブレガンジュールBeleganjur(行進用のガムラン)などのロンバはまだ行われても、オゴオゴOgoh-ogohのロンバはなくなってしまって、オゴオゴにかける意気込みが少々そがれているような感じである。けんかっぱやい気性の人々の多い土地に滞在している私としては、安全な反面、皆の気がそがれてまったくやる気がなくなっているのはちょっと寂しい気がする。
 ところで面白いのは、この「パラダ」という言葉、バリのガムランの演奏会にだけ使われていることである。普通のポップスのコンサートやジャズのセッションなどは、「コンセールKonser」と呼ばれて、あきらかに「パラダ」とは区別される。
 「パラダ」も「コンセール」もインドネシア語として使われているのだと思うが、あきらかに英語の借用語。パラダにいたっては、ちょっと意味が変化しているような気もする。しかし、「パラダ」がバリ・ガムランの演奏会を指す、ということは、これはバリ語として取りこまれたのだろうか?それとも他の島でも用いられる言葉なのだろうか?

5.ガムランの材料と値段

 ガムランの材料とは、ブロンズの鍵板と枠組みの木、竹などである。ブロンズに使われる錫がインドネシアではとれないのは有名なところだが、現在、もっと困難なのは、木と竹の確保である。
 木のほうは、カユ・アッサム(タマリンドの木の芯で、黒色化したもの)が一番よいとされるが、そんなものは現在、まったく手に入らない。一度手放したら、二度と手に入らない代物である。現在では、カユ・エバン(黒檀)をその代りに用いている。彫刻を施すものは、そんなによい木でなくてもよくて、ジャックフルーツの幹などが用いられる。現在、ほとんどの木がバリ島以外の地からの「輸入品」である。
 また、ガムランでは共鳴胴に竹を使うが、この竹の種類がものによっては決まっているのである。孟宗竹のように肉厚ではいけない。まず第一にまっすぐでなくてはならない。そして節と節の間隔が広く、適度に太いが、肉は薄い、このような竹が必要不可欠なのである。特に、グンデル・ワヤンに使う竹は肉の厚さがとても薄いことが求められる。
 実はこの竹すらも現在、入手が困難である。今の時代、お金が最優先。ガムランで使う竹は、上記のような条件だけではなく、さらに立ち枯れていなくてはならない(音が竹の乾燥によって変わるから)、少しでもひびが入ってはいけない、音に合う太さ、長さでなくてはならない、など、さらに厳しい条件がつくため、竹の所有者はほんの一部の竹しか売れない。しかし、スマット(椰子の葉を「縫」って供物を作るために使うもので、竹ひごの細いもの)業者なら、どんな悪条件の竹であっても買い取ってくれる。そしていまどき、自分でスマットを作る人はあまりいないこともあって、スマット業者は儲かっていて羽振りがよい。そんなわけで、竹が若いうちからどんどんスマット業者に売られてしまい、ガムラン用の竹はますます手に入りにくくなっているのだ。
 こういった事情から、今ではガムランの値段があっという間にはねあがっていく。つい数週間前につくったものを、その当時の材料費で売ってしまったら、今度は新しい材料がまったく買えない、という時代。ガムラン製作者は売れば売るほど、赤字になってしまう。経済危機以降、ガムラン製作者にとっては困難な時代が続いているのである。
 ちなみに、2001年9月3日現在、ガムラン・ゴン・クビャールのフルセットを買うと6000万ルピア(約86万円)、スマル・プグリンガンの最小セットが3500万ルピア(約50万円)、グンデル・ワヤン1対が800万ルピア(約12万円)位だそうである。竹の代りにプラスチックなどのパイプを使ったものや、鍵板の質のよくないもの、木の質を落したもの、彫刻の金装飾の種類を安いものにしたもの等は、もっと安く手に入る。

6.試演奏

 ガムランの製作の最終過程である、微妙な調律にかかせないのが試演奏である。かなり微妙な音の波の幅、ゆれを、1対または一組の楽器の中で聞き取り、すべてが調和して、完全に響くようにするのに、全部の音を使って、普通に演奏してみる必要があるのである。
 純粋に音をならしてみただけの調律だけでは出てこなかったちょっとした音の間隔のずれ、響きの足りなさ(音の波が完全に調和しないと、響きが足りない)、ある特定の鍵板や共鳴胴などの不良がこれによって判明する。たいていは1曲だけではなく、何曲も、何日も試してみて、微調整を続け、製作者がようやく納得できるほどに調律がすんだら、注文主に引き渡される。
 しかし、注文主がそんなに気長であるとは限らない。外国人だけではなくて、現在はバリの人もせっかちである。「はやくしてください」という請求はしょっちゅう。「まだ納得はできないけど、しょうがないか、カンゲアンkangean(こんな感じで申し訳ありませんが受け取っといてくださいぐらいの意味。日本の「粗末なものですが」というご挨拶と非常に似た表現。)。」
 後に演奏を依頼されて、こうして引き取られていった楽器に出会うと、楽器製作者はどうしても調子が気になるらしい(通常、大きな店でも構えている人でない限り、楽器製作者=演奏者である)。「この楽器は使いこまれていい音になった」「この楽器は鍵板が古くなってきたら、音が変わってきたなぁ」等々。とてもいい音になった楽器に出会えば、製作者の顔はほころんでくる。しかし、やむをえない事情(注文主が寺院だったりとか)で、どうしても手放したくなかった大切な楽器(おじいさんの代から大切にしてきた木を使ったとか)を手放してしまったような場合、その楽器に出会うと「やっぱりこの楽器はいい音がするなぁ」とニコニコしつつも、少し残念そうな顔をする。こう言うときは、その気持ちを考えるとちょっと切なくて、私は言葉を失ってしまうのである。

7.トゥカン・クンプリの悲劇

 ガムラン・ゴン・グデやガムラン・ゴン・クビャールで演奏される、ルランバタンという器楽曲には、伝統的にきちんと決まった形式があって、ゴングとクンプール、クンプリという3つの楽器が、形式の周期を教えてくれる。
 ある儀礼を見に行ったときのこと。そこではゴン・クビャールが、ルランバタンのタブ・パットという形式の曲を演奏していた。普通、タブ・パット(のプンガワPengawakという部分)といえば、ゴン(G)、クンプール(P)、クンプリ(K)の3つが、GPKPKPKPGという順番で打ち鳴らされるはずである(最初と最後のゴンはクンプリも同時になっている)。
ところが、このとき、クンダンをきいていて、次はクンプリだぞ、と思っていたら、クンプールがなったのである。あれれ? 聞き間違いだろうか? もう一度。ンカパカパカパカパ・プール。れれれ? クンプールがなるはずのところでは、ダドダドドダド(しーん)。もう一度。ンカパカパカパカパ・プール。
 実はクンプリの鳴る前のクンダンの音が「ンカパカパカパカパ」で、クンプールの前が「ダドダドドダド」と決まっているのである。もう、思いっきり大爆笑。その場に一緒にいた先生もへろへろ笑っておりました。トゥカン・クンプリ(クンプリ奏者)が、自分が音をならすはずのところでクンプールが鳴ってしまうので、自分の音を鳴らす機会を失ってしまい、おろおろしていたのが見えて、なおさら笑ってしまったのでした。トゥカン・クンプール(クンプール奏者)が「自信を持って」間違えて演奏していたのである。これぞ、トゥカン・クンプリの悲劇。(笑)

8.シリシリ・カンビン Silih2 kambing

 先生がレストランで演奏するために作っていたグループから、突然バリスの踊り手が抜けたい、といいだした。この踊り手は、パンジール集落のダランG.A.の息子で、このダランから特に頼まれてグループに加えていた。さらに衣装ももっていなかったので、やむなく衣装も貸し出していた。踊りも決して飛びぬけてうまいわけではなく、さらに勝手に連絡無く、ステージをサボるので、よくレストランのオーナーから先生が怒られる元になっていた問題児であった。
 この問題児がやめる、というので、衣装がなくならないうちに、先生の息子Kが引き取りにいった。この衣装は本当は貸し出し用ではなく、Kが小さいときから、こつこつと踊りで得たギャラをためて買ったもので、古いものと新しいものの2セットあった。
 問題児は、衣装を引き取りに行くと、まるで投げて返すかのような振る舞いで、ひとつのバッグにぎゅうぎゅうにつめた衣装をほおり出した。バリの習慣の都合上、Kは内心むっとしつつも、中身の確認はしないでそのまま引き取ってきた。
 しかし、それが問題だった。衣装は手入れをされたことがなかったらしく、ものすごい臭いを放ち、刺繍がかなりいたんでいた。さらに2セットあったはずの衣装は、1セット分に減っていて、そのうちの新しいパーツ(バリスの衣装はかなり多くのパーツに分かれている)がことごとくなくなっていたのである。今回貸し出すにあたって、追加したパーツは全部なくなっており、Kが自分のギャラをためて買った最後の衣装も、刺繍のあるもっとも高価なパーツがなくなっていた。グルンガン(冠)は実はかなり高価な材料(貝殻)を使っていたのだが、これがいくつも落ちて無くなっていた。Kの怒りがものすごかったのはいうまでもない。家族もカンカンである。
 この衣装はKの想い出の衣装。衣装を買う、ということが、どんなに大変なことなのか(バリスの衣装はかなり高価である)を身をもって知っていたKは、衣装をそれはそれは大切に使っていた。使った後は、必ず陰干しし、丁寧にたたみ、刺繍等が痛まないよう、丁寧にくるんでバッグにしまっていた。グルンガンも、使ったあとは陰干しし、貝殻の形を整え、丁寧に大きめのバッグにしまい、洋服ダンスのてっぺんに安置していたのである。しかも新しい衣装は、自分で使うのがもったいなくて、ついに最後の踊りおさめまで、使わなかったのである。
 先生が、後日やんわりとG.A.に衣装を返してくれるよう、言いにいったけれど、帰ってきたのは、衣装の古いパーツ3つだけだった(ということは、古いパーツもなくなっていたわけである)。結局、踊り手は新しいパーツと古いパーツをいくつか組み合せて、自分の手元に1セット残し、いつでも踊りの依頼があれば踊れるようにしているわけなのだ。だからといって、これ以上、きつく返済を求めることは慣習上、できないし、もうやめてしまった踊り手の給料を削れるわけでもなく、衣装を貸した側の泣き寝入りである。
 このように、「借りたものを返さずに自分のものにしてしまうこと」を「シリシリ・カンビン(山羊は犬から借りた角を返さなかった、という話からきたことわざ)」というのである。先生のうちでは、時々、クンダン(太鼓)もこれに会う!!! ちょっと人がよすぎるんじゃなかろうか。あるいはあまりにもバリの慣習にこだわりすぎているんじゃなかろうか。先生の家族は、この事件のあとでも、まだG.A.と穏やかに話しをしている.....

9.レス・タリLes Tariと親たちのエゴ

 最近の子供達の流行は、レス(塾通い)である。親も受験のため、塾通いをせっせとさせる。それと平行して盛んなのが、レス・タリ(バリ舞踊のお稽古)である。1ヶ月、週2回で10000ルピアの月謝で、数十人まとめて一緒に教えるタイプのお教室である。
 残念ながら、このようなお教室にかよっていても、お教室の質が悪かったり(すべてのお教室がよい先生であるとは限らない)、基礎がきちんとできていなかったりして、踊りとしては不完全であることも多い。本格的に習いたい子供達は、このようなお教室から始めても、最終的には、自主的によく知られた踊りの名手の自宅へ出向き、苦しい基礎訓練に耐え、ようやく踊りを教えてもらうことになる。
 しかし、最近の流行にのって踊りを習っている子供、いや、子供もだが、その親たちの言い方はものすごい。お教室で一通り習えば、鼻高々に「うちの子は踊りが踊れます」といって歩く。しかも、レストランなどでの踊り手を集めているうちには、「うちの子は、これも、あれも、あれも、全部踊りなら踊れます。うちの子を使って当然」といってくる。すごいエゴである。実は、こういう子供達に実際に踊らせてみると、ぜんぜん踊りや音楽がわかっていなかったりして、レストランやホテルなどでの興行には使えない子供も多い。
 確かに踊りは知っているかもしれない。だが、踊りに限らず、芸術には「質」というものがある。基礎が大切である。基礎なくして、振付だけをしっていても、それは踊れる、ということにならない。たとえて言えば、ガムランのパングル(桴)を逆に構えて、演奏しているようなものである。ガムランにしても同じである。基礎なくして、曲をたくさん覚えても意味がない。大切なのは、どれだけたくさんの曲を知っているか、ではなく、どれだけたくさん基礎の勉強をし、それを応用できるか、である。
 ガムランは習得が大変なので、子供の頃から興行に参加できることはまれである。しかし、踊りの華は子供時代にある。そのため、親をも巻き込んで、レス人気、エゴイズムが過剰になっていくのだ。興行とはすなわち、お客様に見ていただくのだから、本来なら、とても上手な子から使うべきところである。しかし、そこに親のエゴがしゃしゃりでてくると、芸能興行グループの運営は大変である。

11.クレアシとコンテンポレールKreasi & Kontemporer

 バリでは、多くのガムランの新作が今現在でも作曲され、それが流行する。しかしその多くは、何かの大会や演奏会、会議等のアトラクションとして舞台で公演するために作られるもので、定番ものとして定着するのは難しい。特に、芸術大学の卒業公演のために作られる曲が定着するのは、非常にまれである。
 しかし、卒業しようとする学生が作る曲には実は2種類のものがあるのである。ひとつがクレアシで、もうひとつがコンテンポレールである。クレアシとは、伝統的なガムランを用いて、伝統的なガムランの基本的楽曲構成を用いて新曲を作曲するものである。こまかな部分が楽曲構成からはみ出すことはあっても、基本的にひとつのガムランの種類だけを用い、大きな例外がないので、人々に受け入れられやすく、後々、定番ものとして定着しやすい。もうひとつのコンテンポレールは、異なる種類のガムランの楽器、もしくは世界各国の様々な楽器を、自由にアレンジして、楽曲形式も自由に新曲を作曲するものである。こちらの場合、コンセプト・ワークが重要となるが、一般的に言うと、コンセプト・ワークに偏りすぎ、曲としてまとまらなかったり、演奏技術が未熟だったりするのが明かにわかり、最終的な成績としてはあまりよくない点数であることが多い。もちろんのことながら、これがガムランの定番曲として定着することは皆無である。
 学生たちは作曲法の授業で、セメスターごとにこれらの楽曲形式を学んで行くが、一番最初のセメスターで、理論としてこのクレアシとコンテンポレールの違いを学ぶ。しかし、実際にコンテンポレールを聞く機会はほとんどなく、また世界規模での現代音楽を聞く機会がほとんどないバリにおいて、これを作曲してみるのが、第8セメスターであるということは、非常にこの形が定着するためには困難なことである。新しい発想を得られないのみならず、あと半年後〜1年後に卒業を控えてでは、卒業作品にコンテンポレールを予定しているものでもなければ、適当にお茶を濁すような形で授業をすませてしまっても、何の問題もないからである。
 ちなみに、コンテンポレールでよく使われるものに、エレキギター、キーボード、ドラム、ベースなどがあるが、これらはバリの若者がバンドをするときに使うので比較的演奏技術はまともである(音程が狂っているのは、この際あきらめるとして)。しかし、どうしてもヴァイオリンをいれてみたかった、というような試みの場合、曲が崩壊するほど、演奏技術が稚拙なことがあるのが気の毒である。

* 学生が卒業作品を制作するのには、それ以外にも多くの課程、選択があるのだが、それは別の機会に記述する予定。

12.ガムラン製作職人たち

 ガムランの楽器を注文してから、どのように物と注文が流れて楽器が製作されるのか。通常、日本人が買うときは日本同様、楽器販売業者に注文して、楽器を受け取ってから支払いをしているのではないだろうか。実は結構、煩雑な流れがあって、中には材料費を前払いしているところもあるのだ。注文主が前金を払わない場合、楽器販売業者がこれを建て替えていたり、製作職人がやむなく払っていることもあるけれど、どうしてこのようなことになるのか、今回はその工程を記述しよう。
1.まず、注文者は楽器「販売」業を営んでいる人の家、または店舗、工房にて注文。このときにどんなガムランが欲しいのかを伝え、希望を伝える。
2.楽器「販売」業者は、ガムランの台(プラワ)=楽器の外枠、および共鳴筒の製造も行なっていることが多いので、この段階から、楽器の外枠の製作に入る(ここで木枠用の木材費、共鳴筒用の竹の費用が発生)。
3.2.と同時に、鍛冶屋(パンデ・ゴン=楽器鍛冶屋)へ鍵板、またはゴング属の楽器の青銅部分の注文(銅、錫、金などの材料費発生)。
4.プラワが完成したら、一度分解し、彫刻師のもとへもっていき、彫刻を注文する。
5.彫刻(ここで支払い)と鍵板等が仕上がってきたら、これらを外枠製作者がこれを組み立る。
6.この段階で、この業者に技術的に可能な人がいれば、念入りに調律する。
7.その後、彫刻等に彩色。
8.注文主へ楽器の引渡し。
 つまり以上のように、ガムラン製作は、鍛冶屋、ガムラン外枠・共鳴筒製作者、彫刻師、調律技術者などのように、完全分業制になっているのである。その他に太鼓製作職人、弦楽器(ルバーブ)製作職人、笛(スリン)製作職人、桴職人などが、それらの人々とは別に存在する。
 結局、これだけ多くの職人たちが、1セットのガムランを作っているわけで、当然、その人々の間にも、経済的な関係が発生し、経済的強者、弱者も生まれる。そのなかで、販売業者が圧倒的強者であることは、誰の目からみても明らかなことである。そんなわけで、楽器販売に成功した人というのは裕福な暮らしぶりなのである。

13.学校の季節--STSI-Denpasarの9学期(セメスター)

 インドネシアの学校は8月に1年が始まる。インドネシア国立芸術大学デンパサール校(STSI-Denpasar)は、1年を8月からのセメストル・ガンジルSemester Ganjilと2月からのセメストル・グナップSemester Genapの2学期に分けた2学期制をとっていて、全課程は9学期である。9学期の終わりに芸術学士試験(Ujian Sarjana Seni)を受け、これで合格すれば、めでたく卒業となる。4年半かかって卒業するため、卒業式はセメストル・グナップの頭、すなわち2月頃に行なわれる。
 近年、学校の講義棟が増築されたので、今は皆が午前中に通っているのかもしれないが、私が通っていたころは、建物に学生を収容しきれないため、1セメストル生は夕方の授業だった。うだるような暑さの、けだるい空気の中、誰もいない学校で、本当に授業が始まるのかと友人達と心配しあったりしてたものである。1セメストル生の間は、演習の授業が少なくて、ほとんどが基礎科目(インドネシア語、文化学、西洋音楽の基礎、体育など)だった。
 2セメストルからは授業時間が午前中になる。というのも9セメストル生が卒業したため、講義棟が空くからである。そんなわけで、ようやくこの頃から、上のセメストルの学生とも交流が始まる(それ以前にも会ってはいるが、親しくなるのはまれである)。そしてサボリぐせがついてくるのも、この頃からである。
 ところで、本当なら授業はサボれないはずで、ソロの芸術大学などでは出席も厳しいのだが、デンパサール校は「なまけもの」で有名な学校であった。大体において、先生が来ない。先生が大遅刻でやってくるので、生徒もその間にワルンなんぞへコーヒーを飲みにいってしまい、気がつくと授業はほんのちょっとしかやっていなかったり、いつのまにかなくなったり。しかも学校が、外部公演の依頼(踊りなどの公演のチャーター)を受けることも多いため、学校全体で授業がなくなってしまうことも多かった。
 セメストル・ガンジルで始まった授業も、このセメストルの終わりには卒業試験=芸術学士試験があり、学校全体でその準備に追われているため、授業期間がいつのまにか終了していることがある。この場合、あわてて学期末試験だけが行なわれる。しかも私がいた時期は、卒業試験がいつも1ヶ月以上遅れて行なわれていたので、セメストル・グナップがいつのまにか始まっているのに、授業がないことなんて、日常茶飯事だった。それなのにセメストル・グナップの終わりには、バリ芸術祭(PKB=Pesta Kesenian Bali)があって、いつのまにか授業が芸術祭で公演する舞踊劇の準備、稽古の時間に変わり、あわてて試験だけをやって、いつのまにかセメストル・グナップが終わっていたりした。セメストル・グナップは正味2ヶ月、授業があったかなかったか、という状況だったのである。
 しかし、その後2代目校長の時代より、制度が守られるようになったため、少しは改善されたようである。卒業試験はどうやら、中央政府の指示どおり、1月末に行なわれるようになったようだし、卒業式も2月に行なわれている。ただし、チャーター公演や、観光客向けのワークショップの依頼を受けていることには変わりがないので、学校全体が芸能プロダクション化していることには変わりがなかったりするのだ...。

* 2003年、STSI-DenpasarはISI-Denpasar(Institut Seni Indonesia-Denpasar)へと組織改変し、大学院が設置された

14.カラウィタン科Jurusan Karawitanの授業項目

 カラウィタン科とは通常、伝統音楽科とでも訳せるだろう。伝統的な器楽(ガムラン)を中心に学ぶ科で、生徒のほとんどが男性という科である。各科、各学年ごとに時間割が決まっていて、一年の初めにそれを庶務課にとりにいくことから学校は始まる。STSI-Denpasarの場合、学生は自由に授業を選択できるわけではなく、すべての授業が必修なので、ひとつでも単位を落すと、年限内に卒業するのは相当困難となる。
 この授業項目は、大きく分けるといくつかの種類に分けられる。まずは一般教養にあたるもの。それから他の地域の音楽を学ぶためのもの(西洋の音楽を少しとインドネシア国内の別の地域の音楽に関する授業)、バリ・ガムランをより深く理解するためのもの(演習形式が多い)。また演奏を主目的とする学科であるため意外に思われるかもしれないが、音楽学(音楽理論)の授業もしっかりある。また観光客を対象としたワーク・ショップも授業の一環であり、単位が出る。そして何より特徴的なのは、バリ・ガムランを通じて、一芸能者として生きていくために必要なマネージメント法を学ぶことである。
 一般に外国人の留学生が受講しやすい(現在はこれしか許可されていないようである)のは演習の授業で、これは主にバリの音楽が中心である。声楽、劇音楽、インドネシア音楽、演奏技術、自己演奏(ルバーブ=唯一の弦楽器、スリン=笛、グンデル・ワヤンの中からひとつを選択する。自分の得意とするのものは選択できない)などが項目にあげられている。各講座は各々いくつものセメスターにまたがって行なわれる。そのため同じ講座名でも、内容は学年によって異なる。
 また当然のことながら、年度ごとに時間割に若干の変更がある。そのため、学年によって学べるガムランの種類がことなっていることもある。前の学年はガンブーGambuhの授業を受けられたが、次の年の同じセメスターではこの授業を受けられず、結局、卒業までにこれを学べなかったなどという学年もある。ガムランの種類が多いので、これはやむを得ないだろう。学生達は少ない授業時間の中で、なるべく多くの種類のガムランや別の地域の音楽を知ることを要求されるため、結局はあまり深く掘り下げた知識にならないところが少々残念である。
 以下に参考までに各セメスターごとの授業項目を挙げてみる。各々の項目についてはまた機会をあらためて紹介する。

各セメスターごとの授業項目
1.カラウィタンの知識、カラウィタン作曲法T、自然科学基礎、舞踊演習、文化学基礎、インドネシア音楽A、西洋音楽基礎、声楽T、体育、インドネシア語T
2.宗教、道徳、劇音楽T、社会学基礎、インドネシア音楽学、英語、インドネシア音楽B、西洋音楽基礎、声楽U、ワークショップ
3.インドネシア文化史、インドネシア音楽史、インドネシア音楽記譜法、楽器学、カラウィタン作曲法U、インドネシア音楽A、インドネシア音楽学、声楽V、英語、楽器学、Lit.Musik Nusantara(Lit.が何を意味するのかが不明。文学Literatur?)
4.西洋音楽史、芸術哲学、民族音楽入門、民族音楽の知識、西洋音楽の知識、地域の文学言語、劇音楽U、楽器学、ワークショップ
5.インドネシア芸術表現、カラウィタン分析、芸術理解、カラウィタン作曲法、インドネシア音楽A、声楽W、楽器学、芸術哲学、地域の文学言語
6.選択インドネシア音楽、音楽美学、インドネシア音楽批評、口承文学、演奏技術、インドネシア芸術表現、カラウィタン分析、芸術理解、カラウィタン作曲法
7.音響学、調査研究法、カラウィタン・セミナー、論文指導、学外実習、興行のマネージメント法、カラウィタン作曲法、民族音楽の知識、選択インドネシア音楽、音楽美学
8.カラウィタン音響学、歌詞文学、自己演奏、特殊カラウィタン、調査研究法、カラウィタン・セミナー、興行のマネージメント法
9.卒業製作

15.カラウィタン科の授業-その1『劇音楽』Musik Teatre

 カラウィタン科の授業で印象に残ったもののひとつにムシーク・テアトルMusik Teatreがある。これは毎学年開講する講座ではなく、卒業までに2つか3つ受講するものである。
 「劇音楽T」は大体、トペン・パンチャTopeng Panca(仮面舞踊のひとつで5人で演じるもの)で使う曲を習う。基本的にSTSIでは、演習系の授業はグループ・レッスンであり、めいめいが好きな楽器に入ってレッスンを行なう。しかしこの時期(2セメスター生)というのは、ようやくガムランの実習が始まるころで、学生たちにも戸惑いが多い。地域によってガムランのあり方が大きく違うこと、いままでやってきたことがある学生とそうでない学生との差が大きいものであることを、学生自身が知るのもこれらの演習の授業である。この時は、トペンの基本的なクンダンKendang(太鼓)の手に微妙な差があって、なかなか統一がとれなかったのだが、授業の際にSTSIの先生が「標準スタイル」を教えるのでのちのち手がこれに収斂されてしまうことが多い。
 「劇音楽U」はそのときによって様々な音楽を学ぶことになる。私が参加した学年はガンブーの演習であった。先生はデンパサールでガンブーGambuhの盛んな村であるプドゥンガンの出身で、その村のスタイルを教授していた。ちなみにSTSIのスマル・プグリンガンの曲は、この先生が伝えたものであり、基本的にプドゥンガン村のガンブーの楽曲からおこされているものである。このガンブーの授業で特徴的なのは、STSI専用の特殊な長さのスリン・ガンブーSuling Gambuhを使うことである。このスリンは構造原理的にはスリン・ガンブーなのだが、演奏にかかる負担を軽減するために、通常のものより細く短い。したがって同じ調であっても、通常のガンブーを聞きなれている耳には異なって聞こえてしまい、演習は大変つらいものであった。しかしせっかくスリン・ガンブーを使った授業をするのに、使用する調はスリシールSelisir調と、トゥンブンTembung調だけであった。
 私の場合、「劇音楽V」という授業もとることが出来た。このときはレゴンLegong(宮廷舞踊のレゴン・クラトン)の演習であった。数あるレゴンの中から1種類を選び、これを演奏するのだ。しかしこの授業は授業というより、ほとんどチャーター公演のための練習といった感であった。まず初回に「次の授業までに「あの」KOKAR(今の芸術高校にあたるもの)のテープを聞いて曲を覚えて来い。3人ずつのグループになって各部分のアンセルAngsel(曲の途中のブレイク。踊りの振りと密接に関連している)の数も数えて来い」といわれる。それで担当を決めると、来週にはすでにその曲が完成し、演奏可能になっている、というすばらしい(!?)授業であった。外人である私はグループ分けの課題はなかったのだが、次週に当然の顔をしてローテーションに組みこまれた(何度も演奏して、楽器を交替する)のはいうまでもない。
 ちなみに劇音楽のみとは限らないが、これらの演習の授業では、試験が大変である。試験に参加する学生すべてが、ローテーションですべての楽器の演奏をするために、学生の人数と同じ回数、楽曲を演奏するのである。当然、試験時間はかなり延長し、学生も先生も疲労困憊となる。ただし、演習で習う曲が1曲出ない場合、クンダンの担当の学生が「くじを引き」演奏する曲を決定するのが通例になっていたので、1回の試験はだいたい十数回から二十数回であった。
 また学生にしても得手不得手があって、できる楽器と出来ない楽器があるから、試験の際はほとんど皆でつるんでいる状態であった。バリのガムランの場合、大抵は2人1組で演奏する楽器なので、相方が助け船を出してくれるのである。この傾向は、「できる」学年にはあまり見られない。あまりぱっとしない、華のない学年に多く見られる傾向である。でも私はこれで多くの友人達に助けてもらった(もちろん、逆に助けたこともあるけれど)。留学生には厳しいけれど、かなり厳しい自己鍛錬になる授業である。

16.カラウィタン科の授業-その2『舞踊演習』Praktek Tari

 入学したての1セメスター生には、ガムランの実習の授業はほとんどないのだが、数少ない実習の授業がこの「舞踊演習」である。これはガムランと密接に結びついている舞踊の基礎、特に舞踊を知らなくては演奏できない男踊りの基礎を学ぶ講座である。この講座はプダランガンPedalangan科(影絵芝居の人形遣い師兼語り手を育成する科)にもあって、一種の名物となっている。
 大体これらの科に進学してくる学生というのは、ほとんど自らが踊った経験がないことが多い。ごくまれに小さい時に踊っていたとか、高校の舞踊科から転科してきたような学生もいるが、大抵はこれが舞踊初体験である。したがって、皆でこそこそ、舞踊科の学生に見つからないように練習していたりするのである(ただし授業で使う教室は舞踊科のレッスン室だったが)。
 基本姿勢から習う状態であることが多いにもかかわらず、時間が限られているので、当然基礎はおざなり。したがって踊りの構成を習っても、できあがりはへなちょこである。教えてくれる先生たち(有名な舞踊家たちだというのに...)には大変申し訳ないことである(--;)。
 もちろんそんなことは学生だって百も承知。だから試験は大変。舞踊科の生徒に見られないようにすることが。ただし、先生たちもその辺はよく理解しているので踊りの質とかといったものは一切問わない。「君たちはこれから一生、踊りの衣装を着ることはないだろう。たから君たちにとってこの授業の試験で大切なことは、衣装を正しく身につけ、写真をとることである」.......。
 そんなわけで、当日は皆で衣装を借りてきて(レンタルするか友人に借りるかする)、わいわいと化粧をし、こっそり友人のコスKost(下宿)で自主練をして試験に臨むのである。しかし。試験当日にはなぜか情報は知れ渡っており、舞踊科の学生が「見学」に来ているのだった....。私もこの授業をとっていたのだが、後日、全く別のところで「踊ってるのみたわよ」といわれたときには、恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたいぐらいの気分で大汗をかいてしまった。あの時の踊りはひどいものだったので、今でもそのビデオは見たくないぐらいなのに、人の記憶に残るとは。酷い。

17.カラウィタン科の授業-その3『声楽』Musik Vokal

 入学してすぐの1セメスター生から、4期続けて行なわれる歌の授業である。1セメスターから3セメスターまでは、バリの声楽を順を追って学ぶことになってる。
 順を追って、というのはバリの声楽は大きく分けて、4つに分類され、1番目のスカル・ラレSekar Rareから4番目のスカル・アグンSekar Agengまで順々に難易度が高くなっていくからである。1番目に分類されるスカル・ラレ(子供の歌が多い)と2番目のスカル・アリットSekar Alit(マチャパットMacapat、ププッPupuh、ググリタンGeguritanという種類の歌)を1セメスターで、スカル・アリットと3番目のスカル・マディアSekar Madya(キドゥンKidungという種類の歌)を2セメスターで、スカル・マディアと4番目のスカル・アグン(クカウィンKekawinという種類の歌)を3セメスターで学ぶ。
基本的に、これらの授業で選択されるのは、実際に儀礼で使うことの多い曲が中心であった。特にこれはスカル・マディア、スカル・アグンの授業でこの傾向が多かった。したがって、この授業で習った曲というのは、寺院でもよく聞くものである。しかし一方で、スカル・アリットのマチャパットの授業では、作詞するような授業もあった。マチャパットには韻律に決まった法則があって、それにのっとって歌詞を創作しながら歌うものだからである。こうして学生は自らは歌を専門としなくても、ひととおり声楽の基礎を学ぶことができるのである。
 私の場合、さすがに作詞はできなかった(テーマが「芸術家」などという取り付くしまの無いものだったので)。しかし、この授業に関連して、友人たちから言葉の発音をずいぶんと訂正してもらうことができたし、歌だけは外人でも歌えるということが先生たちにもわかったらしく、普通に特別扱いなしで授業が受けられたので、多いに勉強になった。その後、日本人留学生で歌に誘ってもらって学校の主催する公演に出ている人もいたので、その先鞭になったといえるのかもしれない。
 ところで4セメスターでは何を学ぶのかと思われるかもしれない。実は4セメスターではジャワの歌を学ぶのである。ジャワ人の歌の先生がいて、この人が授業を担当しているのだが、学生がまじめにこの授業を受ける気がないため、授業が成立しないことも多かった。授業に行ってみると、先生と助手と私だけ、などということもあり、学生たちは学校の裏のワルンでコピKopiを飲んでだべっているか、サボって帰っているのだった。「マラスMalas(なまけもの)」で有名なSTSI-Denpasarならではの光景である。

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